ものごとに相対(あいたい)するとき、「集中する」などということがよくありますが、ものごとに対して集中するということは、その「ものごと」以外に対しては、注意を払わなくなるということでもありましょう。
ならば、それはどのような心持ちになっているのか、と考えると、ある「ものごと」に対して誠実に接している、ということになると思います。では、注意を払わなくなったその「ものごと」以外のものに対しては誠実に接していないのか、と言われれば、それはそうではありません。そこに存在していることは、現に事実なのですから、単に「またの機会」もしくは、「次のとき」に「集中する」まで、待機している状態だと思われます。
それは、適宜にものごとを捌く心を持っていることであって、ゆとりを持ってものごとに対処している証左であると思います。他のことを考えられないほどの思いでものごとに接して対処すれば、自ずからその対処は完全に、かつ早くなすことができます。さすれば、他の「ものごと」に対しても、同じように誠実に接することができるからです。
「自己を曝すことと同じこと」だから、集中することを厭う人もまたいますが、それは誠実であるとは思いません。曝け出すことが必要でない「ものごと」には、集中する必要もないでしょう。
つまり、「集中する」必要があるものごとであるかどうかを判断する基準は、「自己を曝け出す必要」があるか否かであって、誠実にものごとに相対するには、自己を曝け出す必要がある、ということです。
author:舞嶋 龍裕